15年度卒団者紹介

年間試合結果 姶良オールスター大会 西日本大会結果 西日本大会試合内容
思い出の写真


平成16年3月卒団

写真
氏名 中山 大
6番 投手
主将
山口 泰洋
3番 捕手
丹生附 尚人
4番 一塁手/投手
山村 悟
1番 遊撃手 
重森 祐樹
5番 中堅手
荷福 嵐
9番 左翼手
山口 浩太郎
8番 右翼手
主な
成績
公式戦本塁打 
Aチーム通算7本
公式戦本塁打
Aチーム通算39本
公式戦本塁打
Aチーム通算40本
公式戦本塁打
Aチーム通算18本
公式戦本塁打
Aチーム通算14本
進路 溝辺中野球部 ガッツ鹿児島 姶良ホークス 姶良ホークス 溝辺中野球部 溝辺中野球部 溝辺中野球部

 
    五年間のソフトボール

            山 口 泰 洋

 僕の五年間のソフトボールは長くて短いものでした。僕は二年生のとき友達四人で入部しました。最初の頃はキャッチボールも出来なくルールも分からない状態でしたが、監督、コーチの指導の下、僕は見る見る成長しました。
 四年生になり試合で使ってもらえるとすごく嬉しく、その試合に負けても出られただけで、とても満足でした。
 六年生になり僕は主将を任されました。その時の心境は「チームを引っ張っていくぞ」と言う気持ちでした。
 僕の五年間ソフトボールでの思い出は、西日本大会です。今でも僕が覚えているのは、一回戦を戦う前の緊張感です。あの緊張感は今までに体験したことのない緊張感でした。
一回戦を勝ち二回戦でも忘れられない出来事がありました。最終回無死満塁1点入ればサヨナラの状況で僕は三塁走者でした。
 この時、監督のサインはスクイズだったと思います。でも僕は、三塁コーチャーをしていた今吉コーチとリレイドスチールの話をしていてサインを見落としてしまいました。今吉コーチに「今のサイン何でしたか」と聞くと「知らん」と言いました。僕はタイムをかけようと思ったけど投手はモーションに入ったので、どうしようもなく僕はホームに突っ込みました。結果的にスクイズが決まり勝ちました。これも西日本での思い出です。
 準々決勝では自分たちのプレーが出来ず負けましたが、西日本大会で良い思い出が出来ました。

 あっという間に最後の県大会を迎えました。これまで練習してきたことを精一杯出そうと思い野里と対戦しました。打撃では凡打、守備でのミスからズルズルといき七回にきました。そして、促進になりサヨナラで負けでした。ベストを尽くせなかったこと、チームを牽引できなかったことが悔しいでした。優勝を狙っていて、まさか初戦で負けるとは、思わずショックで一時立ち直れませんでしたが、「この思いを絶対二度としないぞ」と決心しこれから中学校、高校で頑張って行きたいと思います。
 ソフトボールを通し沢山の友達が出来、ソフトボールをして良かったと思いました。
 これも監督、コーチ、お父さん、お母さんの支えがあったからここまで来れたと思います。
 五年間本当にありがとうございました。


   五年間のソフトボール MIZОBE

             中 山  大

 僕がソフトをやり始めたきっかけは、一年生の時からプロ野球選手になりたかったし、僕自身野球がとても好きだったからです。
 二年生になって最初はキャッチボールもろくに出来ずみんなに迷惑をかけてばかりいたけど、今となっては、したの人たちの面倒を見てあげる方です。
 今までの中で一番心に残っている試合は三年生の時初めてAチームの試合に出たときの事です。その試合は町の大会で僕はセカンドで出ました。その試合が一番心に残りました。
 5年生になってからは、ピッチャーとして頑張りました。県大会ではベスト32でした。
 六年生になったら最初ちょっと不安でした。優勝は出来るかな?みんなに迷惑をかけないかな?などかなり弱気になっていました。
 だけど今終わってみて結構良い結果が残せたと思います。
 その中で一番良かった試合は、何と言っても「西日本大会」だと思う。
 二回戦の香南ジェッターズ戦。悟くんのナイスプレイで先制したが、追いつかれてしまった。最終回、泰洋が出てその次の尚斗も出て祐樹もセイフティバントで出た。ノーアウト満塁。最高の所で僕に回ってきた。一球ボールを見てその次、ボールカウント、ワンストライクワンボール、監督のサインはスクイズ。僕はこう思った。

「絶対当てて転がす。絶対に・・・・」


「コン」

 ボールがバットに当たり良いところに転がった。みんないっせいに喜びました。僕もかなり嬉しいでした。けど、このスクイズは、監督が僕を信頼してくれたから成功したと思います。
そして最後の県大会僕は、悔いの無いよう一生懸命頑張ろうと思いました。一回戦は野里とでした。どんなチームなのか分からずに試合が始まってしまいました。
 初回三者凡退でした。けど野里は、僕のフォアボールのせいでチャンスを作りました。そして4番に外の高めのボールを左中間に打たれてしまいました。僕はみんなが付いているのについ一人でやってしまう。それが僕の弱いところです。結局促進で負けてしまいました。そして、僕達のソフトボールは終わりました。けど、まだ中学校、高校まだあるので頑張って行きたいです。

 最後に、監督、コーチ、お父さんお母さん方、そして、黒江先生と僕のピンチを救ってくれたみんなありがとうございました。

特によく声をかけてくれた悟くん、泰洋、尚斗ありがとう。

 中学校でも頑張るぞ!


     僕のソフトボール

六年 丹生附 尚 斗

ぼくのソフトは、小学校二年生の時からだった。最初は、下手くそだったぼくも今はファーストで四番です。ぼくの一番の思い出といったらやっぱり最後の県大会のことです。だけど結果は負けでした。
 ぼくは六年生になって、いろいろな大会に行き優勝をしました。一つ目の大会は田上30周年記念大会という大会で強豪 桜ヶ丘東を破り優勝。それが一番大きな大会での優勝だったと思う。
 さて、「ぼくのソフトボール」という題名でした。ぼくのソフトボールそれはいろいろなプレーをし、いろいろな悔しさを学んだことです。
 ぼくは5年生からレギュラーでしたがミスもいっぱいしました。そして、5年生以下大会もありました。その大会では姶良に負けて県大会にはいけませんでした。ぼくは五年生の時にいっぱいミスをしたので六年生になったら、それをかえそうとしましたが、六年生になってみたらそれが生かされてなかったり、生かされていたり、逸れのアップ、ダウンが激しかったです。僕の2番目の思い出は、西日本大会ベスト8という成績です。最初戦った伊斐と言うチームで弱かったけど最後まであきらめないでぼくたちと戦ってくれました。二回戦 香南ジェッターズという強いチームと戦い1点を争う展開でした。ぼくはその試合で二三振しヒットも出ませんでした。
 3回戦は苅田ジュニアクラブと戦いました。そこはものすごく強くぼくたちもまったく歯が立たなかったところです。そこで、悔しかったことはセンターにヒット性のあたりが出てもセカンドがとめてヒットになりませんでした。そして負けました。
 最初あたりで書いた県大会のことを書きましょう。ぼくはその日緊張も何もしていませんでした。だけど相手が点を取り会が進むごとに焦り始めて点が取れませんでした。それが一番悔しかったです。
 ぼくがこれまでやってこれたのは、チームのみんな、監督、コーチのおかげだと思っています。「ありがとうございました

このソフトボールでいろいろなことを学んだのでこれを活かして行きたいです。

   
   五年間のソフト

            山 村  悟

ぼくは二年生の頃にソフトを始めました。
 最初の頃はボールがとても怖くてキャッチボールもろくに出来なかったけど監督や、コーチが教えてくれてキャッチボールやいろいろなことができるようになりました
 三年生では、Bチームの試合にも出してもらってすごく良い経験をしました。
 四年生からは、Aチームになって、背番号をもらってAチームの大会でもレギュラーで出れてすごく嬉しかったです。だけど最後の県大会で僕は、インフルエンザで出れなくてとても悔しい思いをしました。この悔しい思いを忘れず五年生では、ベスト32になりました。そのときはすごく嬉しかったです。
 六年生では始めて西日本大会へ行きました。初戦の相手は島根県の伊斐というチームでした。みんな緊張していて思うようなプレイがあまり出来なかったけど試合が終わってみれば19―0で勝ちました。
 2回戦の相手は、剛速球ピッチャーがいるチームでした。そのピッチャーはあまりにも速い球でした。僕にはとても打てない球でした。でもやってみれば2―1でサヨナラ勝ちをしました。
 3回戦は小学生とは思えないぐらいデカイ捕手がいるチームでした。初回を1点でしのぐものの2回に4点取られて終わってみれば9―1で負けました。だけどベスト8だったので悔しくはありませんでした。
 創立30周年記念鹿児島県ちびっこソフトボール大会当日の日がやってきました。僕たち六年生にとって最後の大会です。初戦の相手は野里というチームで強くはなかったけどチームワークが良くてみんな心がひとつになっていた。でも僕たちはバラバラでした。だから、サヨナラ負けをしたと思います。だけどぼくたちは悔いのない試合をしたつもりです。
 今まで僕たちに指導してくれた監督、コーチに教えられたことを今後の中学校生活に活かしてスポーツ、勉強、礼儀を頑張っていきます。

 今までありがとうございました。


   4年間の思い出

            山 口 浩太郎

 ぼくは、三年生の時にソフトボールに入りました。最初はどんなスポーツかなぁ、ボールが当たると痛いかなぁ、いじめられないかなぁ、など悪いほうに考えていたけどそうではなくとても優しく教えてくれて、いじめられもしませんでした。 そのころは、お母さんが当番の日に試合を見に行くか、Cチームの試合の時に出るかでした。三,四年生の練習で一番キライだったのはノックです。
 なぜかというと監督がいつもノックをするので打球が速くて取れずにエラーをして怒られたからです。でも五年生になると応援ではなくレギュラーで試合に出てセカンドやライトをしました。
 エラーをしたら怒られるだろうなと思っていたらやっぱり怒られました。でも今は良い思い出です。それから練習をしたけれどエラーはなくなりません。回数は減ってもなくなりはしません。それでもぼくは練習をしました。
 そしたら、エラーの回数は一試合に二回するか、しないかぐらいになりました。でも守備がうまくなってもバッティングのことを考えていなかったので、今度はバッティングをよくするためにティバッティングをやり始めました。途中で守備が悪くならないように壁当てもしました。
 ちょっとずつバッティングが良くなってきたけど、やっぱり速い球には慣れていないので全然打てませんでした。でも打てない原因がありました。それはバッティングフォームです。
 ぼくは、「コーチに右肩が下がっている。だからフライが上がったりするんだ」と言われてそうなんだと思いいろんなことを教えてもらいながら直していきました。そして、速い球を送れないように竹ほうきを振りました。
 それをするとヘッドスピードが速くなって速い球に対応できると言っていました。
 そして、あっという間に一年が過ぎ六年生が卒団して今度はぼくたちが六年生になりました。
 今度からはぼくたちが六年生だと思うと「五年生よりうまくなってレギュラーをとられないようにしないと」と思い練習をしました。でも、今吉耕助君にぼくの守備をとられてしまいました。
 最初はショックを受けたけど、それでくよくよしていたら他のポジションもとられると思い練習をしました。そして最後の県大会を迎えました。
 結果は、一回戦で負けてしまったけど、その悔しさをバネに中学校でも頑張りたいと思います。ソフトボールをして本当に良かったと思います。

  
スポーツ少年団での思い出

           重 森 祐 樹

 ぼくがソフトに入ったのは三年生の時でした。ぼくはみんなより一年遅く入ったので、バッティングも守備も投げることもみんなより出来ませんでした。だけどみんなに追いつく為に監督やコーチに教えてもらい少しづつ出来るようになりました。
 そして五年生になり試合に出れるようになりました。でも試合で打てなかったりエラーをしたりしてあまり結果を出せませんでした。
 六年生になり数々の大会で優勝をしたりしたけど、優勝は出来なかったけど西日本大会でベスト8までいけたのが良かったです。しかも、西日本大会は他の大会とは違って泊まりだったことや他の部屋でテレビを見たりして、みんなでその部屋へ泊まったりして楽しかったです。北九州の全国規模大会では大人と一緒の部屋だったので静かにしていないといけなかったのであまり楽しくなかったです。
 試合での思い出は、センターゴロをファーストに投げてアウトにしたのが良かったです。他にもぼくはチェンジアップが苦手でボールにバットを当てるのがやっとだったけど竹子との練習試合のときに苦手だったチェンジアップをレフトにホームランを打てたのが良い思い出になりました。
 他にも苦手だったのはチャンスでぼくに回ってくるのが多いけどすぐアウトになってしまって点の取れないことがあったけど、吉松旗でツーアウト満塁で満塁ホームランを打ったことや、ぼくは引張りしかできなかったけどライト方向へホームランを打ったことなどいろいろ良い思い出がありました。
 そして最後の県大会では、野里に1点差で一回戦で負けてしまったけどくじけずにこれをバネに中学校へ行ったら野球部に入って竹子の人たちと一緒に野球の練習とかを一生懸命頑張って県大会で優勝できるように頑張ります。今まで本当にありがとうございました。


     思い出のSОFTBALL

             荷 福  嵐

 ぼくは溝辺ソフトに入ってとてもよかったと思う。
 それは、礼儀、あいさつや学習態度についてたくさん学びました。
 ぼくは、中山ソフトボール少年団から、こっちに来たけど溝辺のソフトからはもっと良い教えをもらいました。もちろん、中山でも礼儀などは教えてもらいましたが、溝辺のコーチ、監督、お母さんやお父さんは、もっと詳しく、優しく接し、教えてもらいました。
 その結果、教えてもらったことが、日ごろの生活面に表れています。そのことについてぼくはとても嬉しいです。有難うございます。
 ぼくは、ソフトを始めて約一年半になります。ぼくが一番、経験が浅いです。一生懸命自分なりに、毎日必死で、弟とキャッチボール、トスバッティングと頑張ってきました。
 僕はバッティングがイマイチなので、特にその練習に専念した、少しセイフティバントも上手になったしミート力も門の少しずつ良くなった。泰洋のお父さんが「嵐、その調子で頑張れよ!」といつも言ってくれました。「素振りもやってるか?」と僕のことをいつも心配してくれていました。
 僕はこんなに僕のことを見守ってくれている人が、他にもいたなんて、とても嬉しく思いました。それが、バネになり、試合でも少しずつ打点、安打、ファインプレイなど、ほんの少しづつではあるが上達してきました。
 また、状況に備えての、守備、打撃、走塁等もよく覚え、実につけることが出来ました。
 火、水、土の練習に日曜日の試合で少しずつ少しずつ県大会に自信がついてきました。
 そして、県大会の二日前、溝辺のエース中山大が風邪をこじらせ、誰もが予想しない結果になったのだ、ぎりぎり風邪は治ったがやはり、病み上がりということでいつもの速さが出ず球が走らなかったのだ。
 そして、僕たちの一球の熱い思いは、僕達のソフトはここで終わった。幕を閉じたのである。
「次は五年生、君たちの番だ、僕達の果たせなかった夢をかなえてくれ!」
 一年と半のソフトは終わりました。

 楽しかった。

      監督

      コーチ

      お父さん  

      お母さん

        有難うございました。

                     嵐